暴力映画としての 『キック・アス』  (ネタばれあり)

ヒーロー映画として語るには、歪な部分が多すぎる

主人公デイヴ(アーロン・ジョンソン)は、スーパーヒーローに憧れる平凡な高校生。ある日、インターネットで買ったスーツを身に付け、ヒーローとして街で活動を開始する。その活躍の動画がYou TubeにUpされ、キック・アスの名が知られる。そし後、彼は高度な訓練を受けた親子ヒーロー、ヒット・ガール(クロエ・グレース・モレッツ)とビッグ・ダディ(ニコラス・ケイジ)に出会い、共に活動していくようになる…。



めちゃくちゃ今更だけど、超うろ覚えで感想を書きます。いちおう劇場で2回鑑賞したし。初見時はヒットガールちゃんの炸裂する魅力にウハウハするのに精一杯で思い切り見落としていたのだが、これってコミカルな描写に隠されているけど、暴力の連鎖とか暴力衝動そのものについて語られているのではと思いました。
この物語の流れを、主人公のデイブ視点で簡単に要約すると

「アメコミヒーローに憧れたボンクラ主人公が実際に正義の味方として悪者を退治する」→「彼女が出来てリア充なんでヒーロー辞める」→「退治した悪者達のボスが怒ってヒーロー仲間共々ボコボコにされる」→「再びヒーローになってボスをシメる(いまココ!)」

って話ですよね。
これを意訳すれば「暴力の世界に生きた男が、愛する人の為に堅気になるも、過去の因縁を断ち切れずに、再び血に塗れた世界に帰っていく…」という話になるんですよ!これって、『シェーン』等に代表される昔の西部劇や、高倉健主演の『日本侠客伝』シリーズ辺りの東映ヤクザ映画と同じ話じゃないですか!「正義の味方として悪者を退治する」=「暴力の世界に生きる」だし、「彼女が出来たからヒーロー辞める」=「愛する人の為に堅気になる」、「ボスが怒ってボコボコ」=「過去の因縁を断ち切れず」、「再びヒーローになってボスを…」=「再び血に塗れた世界に帰っていく…」って事ですよ!ね!ね!
だからこれは、単なるヒーロー映画なんかじゃなくて、れっきとした暴力映画なんですよ!オタクが主人公の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』なんですよ!!!

(主人公は無自覚だったとは云え)この物語が暴力を主題にした映画なのだと思ったシークエンスは幾つかあって、例えば念願のヒーローコスプレをして、鏡の前で『タクシードライバー』のトラビスみたく「俺に言ってんのか?」的な真似事していた主人公。最初は、それで済んでたのだが、すぐに物足りなくなり、遂にその姿のまま自警活動に繰り出します。その時の台詞で「(正義のヒーローになる行為は)連続殺人犯と一緒で、妄想だけでは満足できない」って言うんですよ!何処の正義の味方がこんな台詞を吐きますか?

他にも、よく暴力映画で、暴力衝動と性衝動を関連付けて語る事がありますが、今作でもそれを匂わす場面があります。キックアスに変身する前のデイブは、過去に見た女教師の胸元を脳内で反芻し、妄想を膨らまして自慰行為ばかりしていました。しかし変身後は、女教師の姿など見向きもせずに(胸元バッチリ見えてるのに!)、ノートに自分が思い抱いたヒーローの落書きを書き殴り続けます。これは「今まで性衝動に向いていた欲望が、ヒーロー活動という、より刺激的な事に没入する事によって解消される」とも取れます。実際、その後に彼女が出来たら、スパッとヒーロー活動から足を洗ってますし。
だから彼の欲望ヒエラルキーとしてはオナニー<暴力<SEXなんですね。(身も蓋もない答え)

そして、印象深かったのは、キック・アスがドラックディーラー退治をした事(実際に退治したのはヒット・ガール)を、逆恨みしたマフィアのボス・ダミーコが、本人だと勘違いしてキック・アスに扮したコスプレイヤーと、それを偶然目撃した通りすがりの男性を射殺するシーン。なんら罪の無い一般人が無残に殺されるこの場面は、個人的には衝撃的で、この時点で「もうデイブは暴力の連鎖から逃れる事は出来ないんだな」と感じました。後に主人公が悟る「大いなる力が伴わないからといって、責任から逃げてよい訳ではない」という事ではないでしょうか。

…でまあ、挙げればきりが無いんですが、そんな風に「正義のヒーローaka犯罪者予備軍」として活動していた主人公が「ガチキチの暴力父子鷹」ビックダディ&ヒット・ガール親子(通称・山口組)に鉄砲玉として雇われて、フランク・ダミーコ&レッド・ミスト親子(通称・一和会)と一大抗争を繰り広げる話なんですよ!オープニングは東映三角マーク!それが『キック・アス』!!(強引なまとめ)

というのがデイブを物語の主軸とした感想です。DVD発売の頃には、それを取り巻くビックダディとヒット・ガール達の親子二代にわたる暴力の連鎖を主題とした感想を書くかもです。(思いつけば)